創業の想い– Mind –

こんにちは。蔵楽代表の髙橋理人です。
こちらでは、私が創業に至るまでの経緯と想いを綴っております。
少し長いですが、ご一読いただければ幸いです。

初めに~私と日本酒~

「よく飲むと聞きましたが、好きなお酒の種類は何ですか?」

私はこの質問に対して迷わず「日本酒」と答えます。もちろん、ビールを飲むし、焼酎もロックやお湯割りで飲みます。最近はワインやウィスキーなども嗜み始めました。

お酒に分類するものは基本的に何でも飲めるし、飲まず嫌いもなく、分け隔て無く楽しめます。
しかし、その中でも日本酒だけは別格です。

それは、単純に味わいとして好きというだけではなく、一杯の日本酒の背景や歴史、文化、造った人の想いなど、学べば学ぶほど、聞けば聞くほど、これほど素晴らしく人生を豊かにしてくれるものは無いからです。

日本酒が無ければ、これほどまでに多くの方と知り合う事もなかったし、日本の国柄や文化、気候風土、さらには宗教を深く学ぶ機会がなかったです。こうした多くのかけがえのない「酒縁」によって、今の私が形作られていきました。

元々、お酒を飲み始めた大学生の頃に起業する考えはなかったですし、比較的「平凡な」お酒好きな人間でした。

そんな私が、どうして日本酒の酒蔵を支援する企業を創業したのか。ここでは創業に至った考えをお話しさせていただきます。

酔うための最短ツール

私が初めて日本酒と出会い、そして口にしたのは大学の語学のクラスメイトとの飲み会でした。
高田馬場駅近くのほとんど学生しかいない居酒屋で、そのときは飲み放題コースであったことを覚えています。

会の前半は、ひたすらピッチャーに注がれたビールを飲み続けました。
私だけではなく周りの人間もほぼビールを飲んでいました。

ちなみにその当時は、ビールの美味しさが分かっておらず、恥ずかしながらカシスオレンジやカルーアミルクなどジュースのような甘いお酒を好んで飲むような人間でした。
ちなみに、ビールが美味しいと感じたのは22歳になってからです。

会の後半に進むと一人のクラスメイトが「日本酒を飲もう」と提案をしてきました。
メニューを見ると飲み放題の中に日本酒がありました。

特に、銘柄の記載はなく「日本酒(冷/温)」とだけ書いてありました。
クラスメイトが注文をすると黒い陶器の徳利が2つと、黒いおちょこが人数分運ばれてきました。

提案者は、慣れた手つきで徳利から器に日本酒をどんどん注ぎ、その場にいた数名に配りました
。私はなぜか感心するような目でその様子を眺めていました。

その瞬間、強いアルコールの刺激が舌を刺激した後に、温まったヨーグルトのような香りが口の中から鼻を突きました。

驚きながら、液体をグッと飲み込むとヒリヒリとした刺激が喉に。
「美味しくない」これが、私が初めて日本酒を口にした時の率直な感想でした。

しかし、その場では酒のうまさは関係ありませんでした。目的は酔っぱらうことだったからです。

私は流し込むように日本酒を注がれては飲み続けました。
すると、これまでに感じたことのない酩酊した感覚が自分を襲いました。

ビールを何杯飲んでも感じなかった酔い。
日本酒を飲んだことで簡単にその未知の酔いに到達することができました。

「日本酒は酔っぱらうための最短のツール」、これが当時、私が日本酒に対して感じたことであり、この考えは社会人一年目を迎えるまで変わることはありませんでした。

製造業への熱きあこがれ

大学4年になり、就職活動の時期を迎えました。
私は、OBや友人の話と意見交換をし、様々な業種の会社説明会に参加する中で、製造業に強い興味を持ちました。

当時は、中国が台頭しつつあり人件費の安さによるコスト面から国際競争力の低下が不安視されていました。
それでも、日本人のものつくりの技術や突き詰めた先のクオリティの高さに驚きと同時にワクワク、そして誇りを感じ、同時に作り手にリスペクトの念を感じました。

特に、様々な製造業の中でも化学メーカーは魅力的でした。
様々な物質の掛け合わせや、加工方法、用途、などまだまだ未知の要素が多く、無限の可能性を感じました。

私は、「日本の製造業をリードし、この業界を盛り上げる人材になりたい」、そう考えた上で規模の大小を問わず化学メーカーの面接を片っ端から受けました。

その結果、私は縁あって電気化学工業(現:デンカ)への内定が決まりました。いただいた内定はとてもうれしかったのを覚えています。

入社直前の2009年3月、私の携帯電話が鳴りました。電気化学工業の人事部からです。
要件は配属先の連絡でした。配属先の候補は全部で5つ。

東京本社、千葉工場、神奈川の大船工場、新潟の青海(おうみ)工場、福岡の大牟田工場のいずれかでした。
そして、人事部から配属先が告げられた配属先は「新潟・青海工場」でした。

初赴任地・新潟と本物の「酒」との出会い

自身としては初めての一人暮らし。

東京本社での入社式、入社研修を経て、新潟に向かう電車の中では、入社同期数名と過ごしつつも、緊張と不安が入り混じった感情で胸がいっぱいでした。

馴染みのない土地、初めて会う人達、初めての社会人生活、何から何まで初めて尽くしの日々が始まりました。

ここで青海工場がある糸魚川という町に触れます
糸魚川は「いといがわ」と読み、新潟県の最西端であり、東日本としても最西端の市の一つです。

市内には東日本と西日本の境目となる姫川が流れ、この川を境に電気周波数が変わります
。一つの市でありながら東側が50ヘルツ、西側が60ヘルツと異なる周波数が一つのエリアに混在する珍しい街です。

地質学的にも珍しい地域であり、市内は海抜0mから新潟県最高峰の2,766mの小蓮華山の高低差があります。

ヒスイの産地であり、この土地で造られた縄文時代のアクセサリーは北海道でも出土しており、さらに古事記にもこの土地の伝説が載るなど、文化的にも地質学的にも歴史も長い、ミステリアスな地域です。

そんな糸魚川の土地で、一週間の新入社員研修が始まりました。
楽しみであった晩酌も、研修最終日までは一切のお酒は飲むことは許されませんでした。

当時、私はお酒がそれほど好きではなかったので、あまり気にはなりませんでしたが、今思えばかなり過酷な環境です。

研修最終日、会社の役員を交えての旅館の大広間の宴会が始まりました。ビールでの乾杯を終えると、役員が「新潟名物だから」と日本酒を注文。酒の入った徳利が次々に運び込まれ、各テーブルに立ち並びました。

大学の時の印象から、進んで飲む気がしませんでしたが、折角だからと飲んでみることにしました。

すると、今まで感じたことのない味わいを感じ、体の隅ずみまで清められていくような感覚になりました。
そして、思わず「美味しい!」と声を上げ、不思議な高揚感が込み上げてきました。

自分の価値観が180度ひっくり返る、そんな唯一無二の体験をしたのがこの時です。
その衝撃はいまでもありありと思い出すことが出来ます。

ここで私は初めて本物の「酒」と出会うことが出来ました

初めての日本酒イベント~にいがた酒の陣~

衝撃的な日本酒との出会いから、時間を見つけては近くのスーパーや酒屋に行き、様々な銘柄を試すようになりました。
当時、記憶している銘柄は片手で数えるほど。

収集癖のある私は、1つでも多くの日本酒を手にするようになりました。

そんな中、イベントの誘いを受けました。 そのイベントの名前は「にいがた酒の陣」
場所は新潟駅。知人から誘われるままに足を運ぶと、そこには会場の入り口がどこかも分からないほどの長蛇の列。

待ちながら携帯電話で調べてみるとなんと10万人が一堂に会するイベントという事が判明しました。

1時間ほど並び会場に入ると、そこには酒・酒・酒の山。90酒蔵、500種類の日本酒が待っていました。これほどの量を飲み比べるのはもちろん初めて。

さっそく5種類ほど飲み比べてみると、どれも飛び上がるほど美味しい!そして、どれも味が全然違う!このときの感動を思い出すと今でも気分が高揚します。

そしてこときを境に、日本酒に深くリスペクトと共にどんどん好きになっていきました。

飽くなき学びの日々

「もっと学びたい」。とても純粋な気持ちでした。
日本酒を味として好きになったものの、どんな場所でどうやって造られているのか、どのような特徴があるのか、分からないことだらけでした。

酒蔵に足を運んでみたものの、文系出身の私にとってはチンプンカンプン。
ただ、ものづくりをしている蔵人はかっこよく、その魅力を伝えたいと思いました。

そこで、酒蔵の話を理解できるようになろう!と思い立ち、手始めに資格の勉強を開始。

日本酒ファンになり飲み歩く間に、様々な銘柄に詳しくなった自信がありましたが、資格取得に向けた勉強はそれとは全然別のジャンルであり、醸造技術、酒造りの歴史、原材料のことなど、日本酒に関するあらゆる知識を体系的に学ぶ必要がありました。

サケディプロマ、国際利き酒師。
この2つの資格の取得に向けて勉強をつづけた結果、2017年に念願のダブル合格を勝ち取りました。

伝え手への転身

資格取得に向けて勉強を重ねたことで、豊富な知識が得られ、蔵元とも当たり前に話せ、質問もできるようになりました。
ただし、それでも一般的な消費者と酒蔵には情報の格差があり、魅力がほとんど伝わっていないことに気づきました。

そこで、日本酒の良さや楽しみ方を消費者目線で掘り下げて伝えるべく、ライターを志願。
日本で唯一の月刊日本酒誌「月刊ビミー」の日本酒ライターとしてデビューしました。

この間、多くの酒蔵を取材し、自身でコーナーも持つようになりました。
一方で、日本酒セミナーを企画。ビギナー向け日本酒講座や、ワインとの飲み比べイベントなど様々なアプローチで日本酒の楽しみを伝えることに尽力しました。

特に日本の歴史とお酒の歴史を同時に学べるセミナー「日本史と日本酒」は大好評で多くのリピーターを抱えるまでになりました。
そうした活動を通じて、日本一のふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」のライターとしても指名されるなど、仕事がどんどん増えていきました。

同じ時期に、社会人人生としても一つの転機を迎え、製造業を現場からだけではなく、トップラインから応援するために経営コンサルティング会社に転身しました。

ここで製造業に特化した経営・業務改革のスキルを学ぶことになります。

コロナ禍での決断

2020年2月。まだ「コロナ」という名前を聞くか聞かないかという状況でしたが、あれよあれよという間に日本中に感染者が増え、2020年5月に緊急事態宣言が発令しました。
そしてこの時に標的にされてしまったのが飲食店での酒類提供。

自身の知り合いの酒蔵はどこも大きなダメージを受けました。

「これまで経験してきた中で一番つらい状況です」「こんな状況でも補償が受けれられないかもしれない」心に突き刺さる思いで、涙が出そうになりました。
自分の好きな業界、好きな人たちが本気で困っている。

自分の中で「本当にこのままでいいのか」という気持ちが日増しに強くなりました。
「今、力になれなければいつ力になるのか。」「今までの経験・スキルを駆使して酒蔵を元気にするための会社を創ろう」

心の中で結論が出ました。

そして、2020年10月1日の日本酒の日に「酒蔵を世界で一番働きたい場所にする」を経営ビジョンとした「蔵楽」を創業いたしました。

ビジョンの実現に向け、課題は山積みですが、この創業の想いを胸に日々仕事に励んでおります。

https://www.kuraku.co.jp/